国益を守り真実を語り
誠心を尽くすことに
休日なし
  • ■真正保守の側が、自然体で自ら信じる正論を堂々と主張できる風土をつくるため、平成15年に放送を開始した日曜討論は12年目を迎えました。
  • ■この番組は、第1回放送より、毎週日曜日に欠かすことなく放送され、地場・福岡において前例のないユニークな社会派番組として、その地位を確立してきました。
  • ■そこでこの度、放送のあゆみや支える会のあゆみ、出演者一覧、リスナーの声、また今まで出演して下さいました皆様のご意見等を集大成しましたので、公開させていただきました。
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【大東亜戦争とアジア解放-大東亜会議の歴史的意義】

スタジオ日本・特別報道番組 第11弾
日本会議福岡 第10回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い(平成26年8月3日開催)

[趣旨]
欧米の白人諸国に大きな衝撃を与えた大東亜会議
■フーバー大統領の証言
フーバー米国大統領

フーバー米国大統領

加瀬日米開戦時の米国大統領はフランクリン・ルーズベルトですが、彼は世界大恐慌のときに、共和党の現職フーバー大統領から政権を奪取しました。そのフーバー大統領の回想録がつい最近アメリカで出版されました。
 その中で、フーバーは日米の戦争はルーズベルトが一方的に悪かった、ルーズベルトは「狂人」だったとまで言っています。本日の主題とは少し脱線しますので、あまり深追いせず短めに述べますと、昭和20年5月にルーズベルトが急死し、トルーマン副大統領が大統領に昇格します。フーバーはルーズベルトとは犬猿の仲でしたが、トルーマンとは親しかった。そこで、彼はトルーマンに、日本は基本的にアメリカと同じ価値観を持つ国であるから日本とは早期に講和を結ぶべきだと進言します。そして、朝鮮半島と台湾は引き続き日本領として統治させたほうがいいと言い、また、中国の共産化を防ぐために中国大陸にいる日本軍は段階的に時間をかけて撤退させるべきだとも言っています。ところが、アメリカの軍部がこれらの提言を受け入れなかったのです。
 父も日米戦争はアメリカが一方的に悪かったと信じていましたね。ルーズベルトは日本を叩き潰そうとしていたのです。
福冨日本の教科書では、日独伊三国同盟で松岡洋右が突っ走って、近衛文麿が日米交渉を投げ出して云々と日本にばかり非があるように書いていますが、実際には、日本はアメリカと争う気はなかった。ルーズベルトの方が中国や欧州戦線との絡みもあって日本と戦争したかったわけです。ルーズベルトは蒋介石政権に資金や武器を援助し、そして、最後通牒たるハル・ノートを日本に突きつけました。だから開戦の詔書にあるように、やむにやまれず自存自衛のために戦ったというのが日本にとってのあの戦争の側面のひとつ。もうひとつの側面は、有色人種に対する白色人種の植民地支配を打ち破ったということです。本日のテーマの大東亜会議と大東亜共同宣言はまさにそのことを如実に示しているわけです。

■大西洋憲章の欺瞞に痛撃を与えた大東亜共同宣言
加瀬日米開戦の直前に、ルーズベルトとチャーチルが大西洋上で会談して、大西洋憲章が発せられます(1941年8月14日)。そこでは民族自決、つまり各民族に自由に政府を選択する権利を与えると謳っていますが、これは白人だけに適用されるものだった。つまり、ドイツに占領された欧州の白人たちへの宣言にすぎなかった。
 これに対して、大東亜会議は、人類史上初の有色人種によるサミットだったのであり、そこで採択された大東亜共同宣言は史上初の人種解放宣言だったのです。
福冨東京で行われた大東亜会議は当時、英米仏蘭など欧米の白人諸国に大きな衝撃を与えました。大東亜共同宣言が出されて以降、欧米のマスコミにはアジア、アフリカでの欧米列強の植民地政策を批判する記事が載るようになりました。大西洋憲章は、英艦プリンス・オブ・ウェールズの艦上で華々しく宣言されたけれども、結局白人だけの平等であり、有色人種を差別するものにすぎなかったのではないかという動揺が当時のニューヨークタイムズなどの紙面に表れています。
 言葉だけでなく、日本軍は緒戦でプリンス・オブ・ウェールズを沈め、東南アジアからイギリス、オランダ、フランス、アメリカを追い出して、アジア各国の首脳を東京に集めたわけですから、説得力を持ったわけです。
重光葵外務大臣

重光葵外務大臣

加瀬さて、その大東亜共同宣言は昭和18年4月に、重光が東條内閣の外相になったことで、にわかに現実味を帯びていきました。重光はかねて大東亜新秩序をつくる悲願を持っていました。
重光は、いつごろからそのような考えを抱いていたのでしょうか。
加瀬上海で片足を失った頃にはすでに持っていたのではないでしょうか。(略)
 私は幸運なことに、父(加瀬俊一・初代国連大使)の関係で幼少の頃から、松岡洋右、東郷茂徳、そして重光と歴代の外相にかわいがってもらいました。重光さんのこともよく覚えています。重光さんはチェーンスモーカーで、象牙の短いパイプをくわえていましたが、そのパイプで義足を叩く癖がありました。叩くと断続的に鈍い音がしたのを思い出します。
 大東亜会議に話をもどしますと、重光は東條内閣の外相になる前年、中華民国大使時代にすでに「対支新政策」を打ち出して、日本と中国との関係を対等なものにしようと考えていました。ですから、外相になったときには大東亜共同宣言の考えを温められていたと思います。
福冨当初重光は対支新政策をアジア諸国全体に拡大し、アジア版国連のような国際機構を構想していました。その中には大東亜仲裁裁判所、大東亜警察軍、通商安定のための大東亜清算銀行の設置などが盛り込まれていましたが、余りにも壮大すぎて幻に終わりました。
 しかし、その信念は、東條内閣の下での大東亜会議、大東亜共同宣言に結実します。大東亜会議は重光葵が提案し、東條が実行したといわれますが、その会議で採択された大東亜共同宣言は重光と加瀬大使の合作でした。
加瀬重光さんは、三番町にあった自宅に父を呼び出して、大東亜会議の構想を話して、それから二人で大東亜共同宣言を起草します。原文は英文ですが、出来上がった文案を父が東條首相の下に持参して、「これを外務省の提案ではなく軍からの提案として出していただきたい」と進言し、東條首相はこれを受理します。
深田祐介著『大東亜会議の真実』(PHP新書、『黎明の世紀』文藝春秋を改題)では、陸軍省、外務省、大東亜省の調整の結果、文案が策定されたとされていますが、実際にはそういう背景があったのですね。
福冨正確にいうと、前文が大東亜省案、本文が重光・加瀬案ということでしょうか。加瀬大使の回想録には「毎朝早く、三番町の重光邸を訪ね共同宣言の草案を練った。重光は、ベートーベンのように髪の毛をもみくちゃにしていた。宣言文の英文は、私が起草した」とあります。
 そして10月23日、大本営政府連絡会機で大東亜共同宣言が決定します。
 一、共存共栄の秩序を建設す
 二、相互に自主独立を尊重す
 三、相互にその伝統を尊重す
 四、互恵のもと緊密に提携す
 五、人種的差別を撤廃す
の五項目を柱とした人類史上初の人種平等宣言が完成したのでした。
 重光は「大東亜会議を開けば、大東亜戦争の目的はアジアの解放にありという、わが国の正当性を世界に示すことができる」と東條に語りました。また、重光は大東亜共同宣言の意義を「敵の戦争目的の破壊」とも表現しています。そして、先述したように、この大東亜共同宣言は、米英の大西洋憲章の欺瞞性を明らかにし、大きな衝撃を世界に与え、この理念に裏付けられた日本軍のアジア解放の戦いは、米英等の植民地政策に対して致命的な打撃を与えることとなったのです。

■日本人の悲願だった人種平等
福冨昭和天皇もこの大東亜会議と大東亜共同宣言をおよろこびになったと伝えられています。
加瀬御歴代の天皇には一視同仁の伝統があります。大御心には人種、身分などの分け隔てはないのです。ですから昭和天皇は人種差別が大変にお嫌いでした。
 人種平等の世界を作りたいというのは、幕末以来の日本国民の悲願でした。その背景には二つの理由があります。ひとつには、日本自身が白人国家から差別されていたことです。その象徴が日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約という不平等条約であり、その改正は正に民族の悲願でした。
ヴェルサイユ条約の調印(大正8年6月)

ヴェルサイユ条約の調印(大正8年6月)

 もうひとつは同じ有色人種の民たちが置かれたもっと悲惨な状況に対する憤りでした。幕末にヨーロッパやアメリカに渡った武士たちは、途中、アジアやアフリカの港に立ち寄ったときに、同じ有色人種が牛や馬のように酷使されている様子を見て憤慨するわけです。不平等条約は日露戦争勝利後にようやく改正にこぎつけます。40年かかりましたが、改正には欧米列強と肩を並べる強国となることが必要だったのです。
 それから有名な話ですが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約において、日本の全権団が人種差別撤廃案を提出しますが、小国も含めて日本を支持した国が多数を占めたにも拘わらず、アメリカのウィルソン大統領が重要事項については全会一致が必要といってこれを否決します(出席16ヶ国中11ヶ国が賛成。議長国米国が突然全会一致を主張、提案を退ける)。
 それはもしこのような提案が通ったら、アメリカで黒人たちが立ち上がることが目に見えていたからです。当時のアメリカ国内の人種差別がいかにすさまじいものであったか。今では想像しにくいかもしれませんが、私は、1950年代の後半にアメリカの東海岸に留学しましたが、当時は、教会から水飲み場、バス・列車の座席、トイレなどに至るまで全て白人用と黒人用とに分けられていました。ニューヨークやワシントンでは白人用のレストランには黒人は絶対に入れませんでした。野球のメジャーリーグで黒人がプレーできるようになったのは第二次世界大戦後のことですし、ゴルフでも黒人のキャディはいましたが、黒人のゴルフ選手など考えられない時代が長く続きました。
 ところが、日本がアジア解放、有色人種解放の大東亜戦争を戦い抜いた結果、戦後、アジアだけでなくアフリカにも次々と独立国が生まれました。当然、黒人の外交官がニューヨークに大勢来るようになるわけですが、そうなると、アメリカの黒人たちがどうして自分達だけ差別されているんだと目覚めていくわけです。そしてキング牧師が公民権運動を率いていくようになる。それまで黒人には選挙権もなかったし、白人と黒人との結婚も認められていなかったのです。そういう差別が法的に完全に撤廃されるのは1967年でした。ですから、オバマ大統領が誕生したり、ゴルフのタイガー・ウッズやテニスのウィリアムズ姉妹が活躍できるのも、実は日本のお蔭なのです。

■バンドン会議とオバマ大統領のお辞儀
オバマさんはそのことを認識しているのでしょうか。
加瀬オバマ大統領が来日して天皇陛下と会見したときに、大統領が深々とお辞儀をしたことが話題になったことがありました。
報道された写真では、まるで陛下に最敬礼しているかのようでした。
加瀬あのとき、オバマ大統領はどんな気持ちだったのか。これは大統領の側近から聞いた話ですが、あのとき、オバマ大統領は「日本のお蔭で自分は大統領になれたという思いで胸がいっぱいになって深くお辞儀をしたのだ」と語ったそうです。
福冨1955年4月に、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(AA会議、バンドン会議)には、日本からは加瀬大使が全権として参加されましたが、アジア、アフリカ各国の代表から握手攻めにあわれたとか。
加瀬バンドン会議は戦後、日本が初めて出席した主要な国際会議でした。ネール、スカルノをはじめ「日本のお蔭で我々は独立できた」と次々に握手を求められたと父はよく話していました。
福冨ネール、スカルノのほかにもエジプトのナセル、ガーナのエンタルマなど錚々たる顔ぶれがいたわけですから、これほど大東亜戦争で日本が為した偉業を物語る光景はありませんね。

■チャンドラ・ボースとインパール作戦
大東亜会議(昭和18年11月)に出席した各国首脳

大東亜会議(昭和18年11月)に出席した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース

福冨ここで再度、大東亜会議のことに話をもどしますと、あのときも正にアジア各国の錚々たる指導者たちが東京に会したわけです。
 昭和18年11月5日、帝国議事堂(現国会議事堂)に集まったのは、中華民国から汪兆銘行政院長、タイ国からワンワイタヤコーン殿下、満州国から張景恵国務総理大臣、フィリピン国からラウレル大統領、ビルマ国からバーモウ総理大臣、そして大日本帝国から東條英機総理大臣です。
 自由インド仮政府首班、チャンド・ボースはオブザーバーとして参加しますが、まさにこの会議の主役とすらいえる存在感を示しました。事実、ビルマのバーモウは自身に与えられた短い演説時間の中で、インドに言及し、「インドの自由なくしてビルマの独立はなく、インドの自由なくしてはアジアの自由なし、と断言するのであります。敵をインドより追放しなければ、アジアは永久に自由にならないのであります」と述べました。
加瀬重光と父がチャンド・ボースを帝国ホテルに訪ねたとき、父がボースと同郷のベンガル出身のタゴールの詩を諳んじてみせると、ボースは非常に感心したということを父から聞きました。
加瀬俊一・初代国連大使

加瀬俊一・初代国連大使

福冨加瀬大使は大変な努力家で、イギリス駐在中は、チャーチルの家族の誕生日に花束を贈るなどしてチャーチルの知遇を得、チャーチルの著書の一節を本人の前で諳んじてみせたというエピソードも残っています。イギリスを離任するときには、「我々の友人が離れる」と現地のマスコミがこぞって書き立てたというほど、人の心をつかむのがうまかったようですね。
加瀬父が駆け出しの外交官のとき、ロンドン海軍軍縮会議に随員として参加しました。会議で保有艦量の比率が英米日が5対5対3と決まったとき、不平等がすぎると批判の声が日本で上がりました。
 当時イギリスで有名な銘柄の煙草に、「三三三(スリー・スリー・スリー)」があって、父はロンドンの各国記者団にこれを配って、「(五五五(ファイブ・ファイブ・ファイブ)というブランドがないのが残念です」と言ったら大喝采で、新聞にそのことが載った。その新聞の切り抜きを父は持っていて、見せてくれました。
福冨加瀬先生もウイットに富んでおられますが、まさに父親譲りですね。
加瀬ボースの話にもどりますと、インドを支配していたイギリスは、マレーシアやシンガポール、ビルマ(現ミャンマー)などを統治するのに、インド兵を動員して編成した英印軍を利用していました。日本がマレー半島やビルマを解放したとき、英印軍から多くのインド兵が投降し、これを日本の陸軍の諜報機関(F機関、のちに光機関)がインド独立のためのインド国民軍(INA)に作り替えていきました。そのインド国民軍を統率する指導者として当時ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースをシンガポールに呼び寄せたのです。
福冨ボースは、ドイツから潜水艦Uボートに乗って、アフリカの喜望峰を回りマダガスカル沖で、回航してきた日本の潜水艦に乗り換えてついにアジアに舞い戻り、シンガポールでインド国民軍を閲兵します。夢にまで見たインド独立のための軍隊がそこにあったわけですから、ボースの感激はいかばかりであったことでしょう。
加瀬そして、ボースは東條首相に掛け合ってインパール作戦に漕ぎつけました。
福冨インパール作戦はインドを目指して日本軍とインド国民軍が進撃しますが、補給もなく悲惨な戦いとなりました。
加瀬戦後、「白骨街道」といって無謀な作戦と酷評されました。
 ところが、こんなことがありました。今から15~6年前でしょうか、渡部昇一先生とテレビで対談したとき、私がインド独立記念日にインドに行った時の話をしたんです。
 インド国民軍の戦友会の代表が私を訪ねてきて、靖國神社に我々からの感謝状を奉納したいというのです。感謝状には、「日本軍将兵が我々と共にインド独立のために血と汗を流してくれた。そのことがインドの独立をもたらした。我々はインドが続く限り、大日本帝国軍に対する感謝を忘れません」と英語で書かれていました。私が訳して奉納しました。
 日本が戦争に敗れるとインド国民軍も英軍に降伏します。イギリスはイギリス国王への反逆罪としてインド国民軍の将校たちを裁判にかけます。すると、インドの国民が「彼らは反逆者じゃない、インドの自由のために戦った英雄だ」として全国で暴動が起こり、イギリスはそれに抗しえず、ついにインドの独立を認めざるを得なくなります。だからインパール作戦によってインドの独立は達成できたと、インドの人たちが感謝しているという話をテレビでしました。すると、夫がインパール作戦で戦死したという未亡人から私の事務所に電話がかかってきて、「番組を見て夫が無駄に死んだのではないと初めて分かりました。夫の霊前に供えたいので録画ビデオをもらえないか」と泣きじゃくりながらいわれました。
それは感動的なお話ですね。日本会議の初代会長を務められた塚本幸一氏もインパール作戦の生き残りでした。

■ムルデカ17805
平成13年に公開された映画『ムルデカ』

平成13年に公開された映画『ムルデカ』

加瀬感謝状は靖國神社に届けて、しばらく遊就館に飾られていました。このようにいかに日本軍が現地の人々に感謝されているかという話はたくさんあるのですが、ここではもうひとつインドネシアの例を挙げましょう。インドネシアの独立を日本は約束していましたが、その約束を果たす前に日本が敗れました。インドネシアは、大東亜会議に参加してしかるべきでしたが、それは実現せず、大東亜会議の直後に独立運動の指導者ハッタとスカルノが来日しています。
 二人は、日本敗戦2日後の8月17日に、日本軍司令官の反対を押し切って独立宣言を強行します。降伏後に独立させたと言ったら、連合国からどんな報復を蒙るか、分からない。首都ジャカルタにはムルデカ広場があります。ムルデカは「独立」という意味です。その広場に立つ独立記念塔の地下に、独立宣言文が収められていますが、日付は「17805」となっています。178は8月17日ですが、05は何でしょうか。昭和20年は西暦1945年ですから違います。イスラム暦でもありません。それは日本の皇紀2605年なのです。日本に感謝するために皇紀を使ったのです。
 日本軍はオランダを追い出して、インドネシア独立の準備の為にインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(PETA)を作ります。スカルノ初代大統領のあとを継いだスハルト大統領はPETA出身です。毎年8月17日の独立記念日の式典はムルデカ広場で行われますが、PETAの軍装に日本刀を下げた将校がインドネシア国旗を掲揚するところから始まります。PETAの老兵たちが夫人連れで参加して『兵隊さんよ、ありがとう』『愛国の花』など日本の軍歌や愛国歌を次々と合唱してくれます。
福冨加瀬先生が原作で出演もなさった、映画のタイトルは『ムルデカ17805』でした。
加瀬私は、いつか日比谷公園辺りにインドネシア独立宣言記念碑のレプリカを建てたいと思っています。
(『日本の息吹』平成25年12月号)

大東亜戦争に関する識者の声
■アーノルド・J・トインビー(歴史学者)
アーノルド・J・トインビー

アーノルド・J・トインビー

「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
 日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
(英紙『オブザーバー』、1956年10月28日)


■サンティン(アムステルダム市長、のち内務大臣)
サンティン

サンティン

「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。
 戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。
 あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は、私共白色人種が悪いのです。100年も200年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。植民地・属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄権樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。即ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
 日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑む事を止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」
(1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問時の市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)


■ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事・法学博士)
ラダ・ビノード・パール

ラダ・ビノード・パール

「要するに彼ら(欧米諸国)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。‥‥私は1928年から1945年までの17年間の歴史を2年7ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。」
(昭和27年11月5日/広島高等裁判所での講演)

[シリーズ]
 ■第10回(平成26年8月3日開催)  
【加瀬英明先生(外交評論家)「大東亜戦争とアジア解放-大東亜会議の歴史的意義」】


[アーカイブ]


[資料]
 ■第1回(平成17年8月6日開催)※第1回のみ「追悼・感謝 終戦60周年福岡県民の集い」  
【小野田寛郎先生(小野田自然塾理事長)「21世紀を担う日本人へ」】
 ■第2回(平成18年8月5日開催)※第2回から「追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い」  
【伊藤哲夫先生(日本政策研究センター所長)「靖國神社と東京裁判」】
 ■第3回(平成19年8月5日開催)  
【清水馨八郎先生(千葉大学名誉教授/元海軍兵学校教官)「大東亜戦争の正体を知り、日本に自信と誇りを」】
 ■第4回(平成20年8月10日開催)  
【東中野修道先生(亜細亜大学教授)「再現南京戦―南京占領の虚と実」】
 ■第5回(平成21年8月9日開催)  
【占部賢志先生(公立高等学校教諭)「激動の近現代史を見直す―日本人の誇りを取り戻すために」】
 ■第6回(平成22年8月8日開催)  
【中西輝政先生(京都大学総合人間学部教授)「歴史の書き換えが始まった―コミンテルンと昭和史の真相」】
 ■第7回(平成23年8月7日開催)  
【小堀桂一郎先生(東京大学名誉教授)「日本の歴史を国民の手に取り戻せ-東京裁判史観打破の為に」】
 ■第8回(平成24年8月5日開催)    ■第9回(平成25年8月4日開催)    ■第10回(平成26年8月3日開催)  
【加瀬英明先生(外交評論家)「大東亜戦争とアジア解放-大東亜会議の歴史的意義」】


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