古高取(直方市内ヶ磯窯)の陶工たちはだれだったのか

日本再発見・本篇第96弾 全3回 平成27年5月10日~5月24日放送

番組の趣旨

 今から400年余り前、関ヶ原の戦いの後、福岡入りした初代藩主黒田長政の指示により筑前の国にも茶陶の制作を目的とした窯の建造が始まりました。当時有力武将の間では茶の湯の席に参列することは自らの地位を誇示する有力な手段でした、その影響もあってか西日本の有力武将たちは自領に自ら茶陶を作る窯を築きました。

 福岡藩内では当初、小規模な窯が数かに所造られ、最終的には直方の内ヶ磯に26mに及ぶ巨大な登り窯がつくられました。その窯で焼かれた茶陶は高取焼といわれ、内ヶ磯以降窯跡を数か所移し東峰村と福岡市の窯に引き継がれ今に至っています。

 高取焼は宅間釜・内ヶ磯窯・山田窯までを「古高取」といい山田窯の後の白旗山窯以降の高取焼を「遠州高取」といって区別しています。開窯当初の中心的陶工たちは黒田好孝・長政親子が朝鮮出兵の折日本へ連れ帰った李八山たちであるとされてきました。しかし李八山らは渡日後、中津で生活していたと思われますがその頃茶陶を作っていたとは聞きません。さらに内ヶ磯窯以前に福岡藩領内で造られた上畑窯(岡垣町)・千石窯(宮若市)宅間窯(直方市永満寺)の発掘品などを見ると茶陶といえるものは有りません。それから数年後に八山らが内ヶ磯で焼かれた様な茶陶を作ることは不可能と思われます。

 宅間窯をはじめ内ヶ磯窯以前の窯の形状は割竹式の登窯ですが内ヶ磯窯は半地下式連房階段状登窯と全くの別物です。また釉薬も木灰釉と鉱物釉の違いがあり、轆轤も蹴轆轤と手回轆轤の違いがあります。内ヶ磯窯とそれ以前の窯の技法の違い及び窯の形状の違いは何を意味するのでしょうか。

 昨年直方市在住の「桃山陶」研究家小山亘氏が上梓された『「織部好み」の謎を解く・古高取の巨大窯と桃山茶陶の渡り陶工』では轆轤・釉薬・焼成更に古田織部の書状などから内ヶ磯窯の陶工たちは京都から下ってきた日本人陶工達だという説を展開しています。そのことを示唆するものとして唐津・美濃・信楽や備前で焼かれた茶陶が釉薬・形成・焼成などの点で内ヶ磯で焼かれた茶陶と酷似しているものがたくさんあります。また最近は科学的機器の登場で窯跡の変更をせざるを得ない伝製品が登場し始め、特に従来上野焼・唐津焼・萩焼とされていた伝製品が「古高取」と窯跡が変更されてきました。このことは同じ陶工が西日本を中心に多くの窯で作陶活動をしていたことを示唆しています。

 従来の陶磁器研究において器体の形成・釉薬・焼成等についての考察が充分であったのでしょうか。16世紀の後半から17世紀の桃山バブルとも云われる日本の政治・経済・文化の盛り上がりに対する考慮は充分であったでしょうか。茶陶のみならず着物にも武具にも中世から近世へ移行しようとする時代の力強いエネルギーを見てとることができます。そのエネルギーをじかに体験できた者は京都在住の陶工です。彼らが織部と結びつきそれまで茶陶で和物と言えば瀬戸と言われてきた勢力図を大きく変えました、それは「いまやき」といわれ前衛的な茶陶として当時の茶の湯の世界を席巻しました。今回、備前焼2代目藤原楽山に長年師事した陶芸家でもある小山氏が自らの知識や感性を駆使し内ヶ磯窯の職人集団はだれだったのか、その謎に挑みます。

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