国土観と神話~国土観と神話

特別篇 第41弾 令和6年4月21日放送

番組の趣旨

古来、中国大陸では、農耕民の漢民族と、その周辺から中央ユーラシアの草原地帯にかけて広く分布していた遊牧騎馬民族の間で、覇権が争われて来ました。秦の始皇帝が建国してからは、彼らは大きく連合するようになりました。中国の歴代王朝には、遊牧騎馬民族によって建国されたものが多くありました。1206年、モンゴル部族の長であったテムジンは、モンゴル高原の部族長の大集会で、最高指導者に選ばれ、"チンギス・ハン"の称号を与えられ、モンゴル帝国を建国しました。

モンゴル帝国の無敵の騎馬軍団はユーラシア大陸を駆け巡り、またたく間に史上最大の版図を持つ大帝国を築きあげました。その領域は、最盛期には沿海州からヨーロッパにまで広がりました。ヨーロッパ人はモンゴルの侵攻を恐れました。モンゴル帝国はフビライの時代に分裂し、東端の宗主国が大都(現在の北京)を首都と定め、国号を「元」としました。

モンゴル帝国の支配地域の統治は、合理的な一面を持ち、シルクロードにあった多数のオアシス国家は、モンゴル帝国に服従し、税を納めることで、他の外敵の侵入から保護されました。モンゴル帝国は、その地域の民族の宗教や文化的慣行には干渉しませんでした。

モンゴル帝国の出現は、歴史上はじめて、アジアとヨーロッパを一つの版図の中で結びつけました。陸と海の交通路が整備され、東西の文化的・経済的交流がなされました。また、現代のヨーロッパの国々やロシア、ムガール帝国などを生み出すきっかけともなりました。モンゴル帝国の出現によって、孤立した文明圏がユーラシア大陸の東西に分裂していた時代が終わり、つながりのある一つの世界の歴史が、初めて成立したのです。

5代目皇帝のフビライは、東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本も征服しようと企てました。フビライは、日本にたびたび使いを送り、服従するように求めました。これに対し、鎌倉幕府の執権・北条時宗は、元の要求をはねつけました。朝廷も同じ歩調をとりました。幕府は、時宗を中心に元の襲来に備えました。

文永11年(1274)、3万余りの元・高麗連合軍が、対馬に現れ、宗助国に率いられた80余騎の武士が奮戦しましたが全員打ち死にします。元軍が博多湾に侵入してくると、これを国難と受け止めた鎌倉武士は、元軍の新奇な兵器に悩まされながらも、命惜します勇敢に戦いました。元軍は、湾内の船に引き上げ、翌朝に撤退していきました。

7年後の弘安4年(1281)に、14万の軍勢で、元は再び日本を襲いました。これに対して日本の武士たちは、船で元軍の大船団に全力を挙げて戦いをいどみ、一昼夜に及ぶ海戦で、元軍に大きな損害を与えます。しかもその直後、台風が元軍を襲い、船団の大部分が荒波に呑まれます。後にこの暴風は「神風」と呼ばれました。こうして2度にわたって襲来した元軍は、ついに日本を占領することが出来ませんでした。この2度にわたる元軍の襲来を「元寇」と言います。そして、今年は、その「元寇」から750年に当たります。

そこで今回は、元寇襲来750年に当たり、特別番組として『国土観と神話~「神国」としての日本』をテーマに、神話の時代からの「日本人の国土観の変遷の歴史」について、視聴者の皆様と共に考えてまいりたいと思います。

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