言霊の幸ふ国~首相の“覚悟”

年末年始篇 第36弾 令和6年1月7日放送

番組の趣旨

靖國の 祠に匂ふ 梅の香の 冴えてゆかしく 薫る玉垣(やすくにの ほこらににほふ うめのかの さえてゆかしく かほるたまがき)

明けましておめでとうございます。毎週日曜日の午前10時からの2時間半という生放送を21年に亙り続けて来られたのも、ひとえに、日曜日にもかかわらず、時論・公論を展開し、国益を論ずるために、全国津々浦々から労を厭わず、ボランティアで出演して下さった数多くの皆様のお蔭です。改めて感謝申し上げます。

私たち日本人は、新しい年を迎えることが出来たことに感謝して、家族揃って神社へお参りに行きます。またお盆には家族でお墓参りをし、ご先祖様の供養をします。これはお彼岸も同じです。しかし、終戦記念日にはどうしてこういうお参りをしてこなかったのでしょうか。また、首相をはじめ多くの閣僚・国会議員は、新年には伊勢神宮を参拝します。しかし、春秋の大祭や終戦の日に首相は靖國神社参拝をしないのはなぜでしょう。それは、戦死者の名誉と尊厳を全否定した上に、現在の世の中が築かれたからです。今年で79年目になるこの秩序は、建国2684年の我が国にとっては、ある種異常な時代だと言っていいものです。こんな異常な状態を決して長続きさせてはいけません。国のかたちが、どうしてそんな築かれ方になったのでしょうか。

我が国は古(いにしえ)より「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」といわれます。「言霊」とは、言葉に宿る不思議な霊威を指しますが、その力は言葉通りの事象を実現する、とされています。「幸ふ」とは「栄えさせる」の意ですから、我が国は「言霊の霊妙な働きで幸を得る国」ということになります。しかし、岸田首相の言葉の端々に踊る耳障りな「修飾語」は、その虚(むな)しさ故に「災い」を予感させます。

かつて、東日本大震災での福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故について、当時の菅直人首相は「決死の覚悟」で臨むと発言しました。「決死」とは、『広辞苑』によれば「事を行なうにあたって、死を覚悟すること」という意味です。生き続けて、政権の座に居直ることを、自らの"政策"の枢軸に据える菅氏に「死を覚悟」する局面などあったでしょうか。

「死を覚悟する」とは、いかなることでしょうか。首相が、靖國神社参拝を厭い、英霊の御遺書・遺品を展示する境内の遊就館を訪(おとな)わないのなら、是非、知覧特攻平和会館で学ぶことを薦めます。そこには、大東亜戦争末期の沖縄戦で、爆装した航空機もろともに敵艦に体当たりした若き大日本帝國陸軍特別攻撃隊員の、国家への、父母への、子への思いが詰まっています。もっとも「覚悟の表現」は一様ではありません。

言葉だけではありません。自らの責任を立派に取ってもいます。少年飛行兵の精神教育を教官として担任した少佐は、生徒を特攻に送った己が立場を正視し、歩兵将校でありながら特攻を志願し、何度も却下されながら、これを全うしました。夫の心魂を深く理解した夫人は、上層部が夫の願いを聞き入れるよう、また後顧の憂いなく特攻できるよう、入水自殺を遂げています。「決死の覚悟」とは、斯くなる行為を言います。

そこで、放送開始21年目を迎える令和6年の年頭は、『言霊の幸ふ国~首相の"覚悟"』~靖國神社参拝をしないから政治がダメになる~からスタートしたいと思います。

「今の日本をより確かなものにするために」、令和6年に私たちの為すべきことは何か――を視聴者の皆様と考えて参りたいと思います。

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